内容が、無いような重いブログ

『重いだけじゃん』と言われたら僕の体力が9割消える。 普通は考えないこと、考えてもいちいち言語化しない事にスポットライトを当ててきます。

タトゥーで見える世間の目と自分の目に違い

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最近話題になってたタトゥーの問題について

凄い簡単に言うと有名な若手タレントがタトゥーの悪いイメージを物色させたい、という意味合いでタトゥーを入れたことを公表するが逆に世間の目は厳しく結構物議を醸したテーマ

 初めに言っておくと僕個人はタトゥー反対派。
しかしただ単にそれだけで終わらす気もないので、色々と考えたことを言葉にしつつ記事になるべく昇華していく。

 

 

 

 

 


タトゥーを他人に見せることはいいことなのか、よくないことなのか?

 国や所属してるコミュニティーで幾らでも変わりそうだが、今回若手タレントが引き起こした事態に鑑みるに、日本という巨大カテゴリーの中ではイマイチ受けいれられないようだ。

 ただこれは国としてのルーツを問われる場合もあるのではないだろうか。
日本では過去に刑罰として刺青を入れる黥刑や、反社会的組織を象徴させるものとして刺青が存在したりはっきり言って国単位でネガティブなイメージを持たれるのが現状ではないだろうか。
またタトゥーの発覚によって人目につかない役職に配置されるなどの声も所々で聞くようだ。 

世の中のルールの決まり方って大体"メリットがあるかどうか"、"迷惑をかけるかどうか"で結構決まると思う。

 僕自身子供の頃の銭湯で直感的に刺青を入れてる人の隣で椅子に座って体を洗うことはなるべく避けてた。
理由としては本当に身も蓋もなく、包み隠さず言えば怖いし、トラブルになったら嫌だから。
子供の時すらそう思っていて、勿論日本の歴史とか、刺青について今以上に知識もなかったが既にそう思ってた。

 後物凄く話は逸れるけど、個人的な主観でタトゥーを入れたとして年を取ってダルダルになって形が崩れたタトゥーって視覚的な意味合いでも非常に悪く見えるような気がする。
肉体の若さを維持するのは物凄く難しいことだと思っている。
その面倒さとそれでも衰えいれたタトゥーが崩れていく現状を僕だったら耐えられないし、
そもそも『なんで痛い思いしながら入れて、面倒な反対派と戦って、タトゥーの綺麗なビジュアルを維持することに努めなきゃいけないんだ』と考えてしまう。

 ここで僕自身が無知なため、有識者から見たら『いや、痛くない』『認めてもらえる場所もある』という人もいるだろう。
だが、それを考える手間暇すらめんどく、それなら入れる必要がないと思うのが正直な感想である。

 僕だけがそう思うなら、あるいは少数派の意見ならそこまでこの問題は重要視されないだろう。
だが嫌な人が沢山いるなら、やはり世の中のルールはそのように変わってしまうのではないだろうか。

プールや公共施設、銭湯温泉などでのタトゥーを入れている人の使用禁止はまさにこれを結果に現している。
ただ刺青を入れることのできる自由は残っている、という解釈もしているけど。

だから例えばタトゥーに理解のある人々同士で遊ぶこともできれば、彫師がそれを生業にして食べていくこともできる。
文化として一定数残るのはある程度の寛容さはこの時点であると個人的には思ってる。

例えば、国が変われば特定の思想の自由等簡単に変わる。
この行為は完全にタブーであるとかも容易に変わる。

日本の場合は一つは肌を露出しやすい公共施設でタトゥーを見せるな、という前提がある。

だから、見せるべきでないと公に言われてる場所では見せないようにこの国ではしたほうがいいのではないか、と。

 


タトゥーを受け入れる現実があるとしたら

 

まず肯定的な意見を持つ人の割合を増やし、ビジネスや観光や商業においてタトゥー肯定者や実際に入れている人の意見を無視できないレベルにまですれば自ずとそうなるのではないだろうか。

そうなると今回の騒動も結果的には必要なことだったとも思える。
これで人々が考えてくれるし、そういう価値観もあるだと思える人が自分の意見を主張し、それを目にかける機会もあるだろうから。

地味かもしれないがこういう行為の積み重ねで社会的な許容性は得られるのではないだろうか。

世の中、自由が謳われているが実際には例えば野球部の全員坊主が前提という風潮やサービス残業等本来強要されてもないのにいつの間にか方向性が変わってたりそれが認められしまってることは沢山あるんだよな。

それをすぐに方向性を変えたりすることは普通できないからこういう行動の積み重ねが必要なのではないだろうか。

個人的にはタトゥーを入れている人が大多数には正直なってほしくはない。
だがなったとして銭湯などでも自由に入れる社会になった時に文句はいえない。

 

不明瞭なものを思うがまま書き連ねました。今日はこんな感じで―――

 

 

 

 

今日の糞発言:最近アクセスが少なかったが絶対僕が活動してなかったせい

『人』という母集団を上から見るか、横から見るか。

 

人は何か大きなも物事を成し遂げるとき一人では大抵できない。
組織を複数人で組んで実行する。
その時に本来、必ず必要である能力だと感じるのは、"人"を俯瞰的に見る能力"である。

最近、インターネットを見ていると感じることとして、
これらは年齢、経験、社会的地位の上昇、周りと比較した時の自分の立ち位置によって比例的に上昇ないし会得するものだと思っていたがどうやらそうでもないらしい。

今回はそららについて考えていく。

 

 

 

 

 

人を俯瞰的に見るということ

 

組織単位で人が存在するとき、自分がその組織で行動することでどういう影響を及ぼすか。他人がどういう行動をすることでどうなるか。
考える機会が全体として減っている、と感じる。

直近で見た例えば、『野球のキャッチャーは負けた時に責任を問われやすい。けどキャッチャーにばかり責任を追及しては勝てない』という文言。
僕自身は野球に詳しくなからそららの意見に対して答えを出すことはできない。

だが、もしこれらが事実ならばプロ野球という野球のカテゴリーで言う最高レベルの人材が集う場所でもこのような問題が発生することはすなわち
年齢経験地位などに問わず、俯瞰的視点を得る事は困難なのでは無いだろうか、という想像ができる。

またネットでも複数人が集まるグループで、『俺が!俺が!』『お前が!お前が!』と原因究明よりも自分と他人の点を点でつなぐような一方向的な意見のやり取りが多い。
ネットゲームでの戦犯探しやマウントの取り合い等もこれらだろう。

当たり前と言えば当たり前だけど同じ人間である。
人間は腕力で熊に基本的に勝てない。
全力で走っても、自動車には追いつけない。
その前提があるのに、種を超えた能力を持つことを平然と求める人間も出てくる。
特に自分はその場にいない場合平気で言う。

また同じ人間でも、努力の仕方や、習得速度や、癖には細かい違いもあり、組織単位での仕事量も変わる。
なのに例えば自分や他人の6時間分の働きを周りの人間も確実にできる、と無思考で思う人間も多く存在する。

またこれらを考えることをやめ自分の都合のいいように組織で言い、それらを求める人間も平然といる。

上記で言ったとおり、特定の条件や能力の差異がある、というのを考え組織にとっていい働きができるように努める事の特異性は高いのではないだろうか。
だってできない人が多いのだから。

 

 

 

俯瞰的視点の特異性

 

これらはある意味センスが非常に問われるものなのかもしれない。

特定の人物が権力を持つとき、客観的意見は出てこず、組織の中での自分を比較する材料が減っていく。
また自分が一番割合の多い要素から外れるとき、自分の現在の立ち位置まで降りてきてもらうように動く事を求める場合が多い。
こういう時に感情は厄介だ。客観性を失わせる。

そういう中で、自分と他人の関係を推し量り組織単位で推察し、『こうすればよくなるんじゃないのか』と考える事はたぶん口で言うよりとんでもなく難しい。

けどせめて俯瞰的に見たい、という意志を持ち、考えてみることは大事ではないだろうか。
何故ならそもそも前提としてできる人が少ない。
そこでできるならば、その人物はその組織で希少性があり、重宝される。
10人のうち、1人でも全体像を把握し、行動できる人間がいるならばそれは大変価値が有るように僕は思う。

僕としては、そういう視点を持ちたいし、そうなる事を自分の強みにしたいと思う時がある。

極論、なにか物事を複数人で組んで行うとき、『自分はここで必要ない』と判断したら『自分』という牌をきれる人間になりたいと僕は思うのだ。

個人的には組織に一人は必要である、と感じるのは
『なんでもかんでも一人でこなせて他人にもそれも求める人間』よりは『どんくさいけど、仕事を適材適所に任せるのに長けていて周りがスムーズに動いてく、のせていくのがうまい人間』の方が長期的に見るといいと思ってしまう。

前者はいるけど、後者はなかなか少ないといったイメージだ。


あなたは、俯瞰的な視点について考えたことがありますか?
またあなたは世の中で少ないかも知れない俯瞰的視点に長けていて、組織を機能させられる自信はありますか?

不明瞭なものを思うがまま、書き連ねました。今日はこんな感じで――

 

 

 

 

今日の糞発言:東京の次は大阪行ったんだけど絶対稚拙な文章と写真になるからあまりブログに取り上げる気にならなかった

人やコンテンツに金をかける尺度を測るモノサシはない

最近、自分が見ていたブログが一部の読者だけ見れる有料購読になった。

あるジャンルに特化したブログで、単純に有益な情報でなく自分の感情も巧みに取り入れ、ただ単に文章を書くだけでなく本当に好きなことを題材にしてるんだな、と感じるブログだった。

世の中、ある程度の固定層や一定の地位を得た場合、有料となる要素を取り入れ、自分自身の方向性や価値を高める行動はよく見える流れだ。

 

勿論、単純に僕自身コンテンツに金を払う行為が単純に面倒だし嫌いというのもある。だが同時にあるサービスやコンテンツが人気になったとき、『まあこうなっても仕方ないよなあ。』と感じる。

 

なんでそもそもこうなるんだろう?

そんな疑問を感じ少し考えてみた。

 

 

 

 

金を払いたくなる心理

 

なかなかいい資料を見つけた。

アンダーソン氏が提唱する5つのルール
アンダーソン氏は、ゼロ化への対抗策として5つのルールを提案している。
1.最善のモデルは有料コンテンツと無料コンテンツをミックスすること
2.よそでも真似できるようなものを、有料限定にしてお金を取ることはできない
3.サイトの中で最も人気のあるコンテンツで料金を取ってはいけない
4.有料コンテンツはニッチに訴求しなければならない
5.ニッチは狭ければ狭いほどよい

出典:有料ゲーム危機の時代 iPhoneアプリは「ゼロ化」の法則に立ち向かえるか

 

 なるほど…、僕の見ていたブログにもかなり共通する。

コンテンツに特異性がある場合、そのコンテンツ自体は有料足り得るようだ。

恐らく段階を得て、有料化するように予め計画してたのかもしれない。

 

何もブログだけでなく、僕の過去にお偉い人と飲みに行った時に、

『最初から金を稼ぐのではなく、地盤となる知識を付け経験を積みそれらが十分になった時に講演など自分の知識を出す場で稼ぐことが出来る。足を速めるな』と。

また例えば、カリスマ美容師等が率いる勢いある美容院が東京の激戦区である美容院が非常に斬新な取り組みを行った。

その中で一部のスタイリストが元々地方より高価なカット料金を更にほぼ倍額にする取り組みがあった。  *1

僕としては、失敗するだろうと軽いノリで見物してたようだが既に固定客が十分におり地盤はできていたようで更に事業を成功させるはこびとなった。

自分が好きなジャンルでもそういった手段と考え方と方向性によってはどんな人でも柔軟にお金を払える、またはもらえる世の中にいつの間にかなっていた。

 

 

金を出す尺度って誰が定量化できるの?

結論から言うと誰もできないと思う。

何故ならそこから有料化できるコンテンツは唯一無二であり、自分の裁量でいくらでも金銭要求額を変えられるし、また提供者側も金銭支出の歯止めが効くとは限らないからだ。

競争がない市場、コンテンツは間違いなく平等でなく、そのコンテンツに長い目で見ると永続性がないように感じる。

 

例えば、少し古くなるがソシャゲでも異常に低確率な当たりを公言せずに不平等である、と問題になったことがあった。 *2

だが本来はそもそも話題になること自体がおかしいのだ。

何故ならそれが正当なコンテンツなら、未然にこのような事態を防げるように感じる。

そして規制を始めようとする流れが出てくるあたり、非常にこれらは不安定で流動的で不完全なものであると感じる。

急にコンテンツの価値がなくなったり、平気で消えたりするのだ。

 

 

 

金を出すことに自分が感じること

正直なところ僕はこれらのコンテンツに滅多に金を出さないので今一的外れかも知れない。

個人的には何か絶対消えて欲しくないコンテンツがあるとして、僕はそれに金を費やしてもいいとは思ってる。

だが、個人で有料化を始めるとき今後そのコンテンツがどうなるか考えておきたくなる。

突然当たり前のように出されてたものが出されなくなったとき、僕の知る限りでは高確率でモメてる。

 

同時に非常に高額な金銭を元々有力なサービス、コンテンツにかけることで更に価値を独占的に高められるケースもある。

今の時代は昔に比べて便利だ。誰でも気軽に何かを提供しやすくなった。

その活動をするのに、投げ銭や何かしらの援助をしやすくなる取り組みはいい流れだと思う。

提供する側にとっても夢があり、その世界に勢いがつく。

けど援助をする前にひと呼吸。それを払って本当に意味あるのか、と最近考える。

 

例えば、激安商品店でよく見られる『当店より一円でも安い商品があったらお申しでください』という文言。

インターネット上の有名人が本来のコンテンツから外れた私生活等が有料で見られるコンテンツ。

金銭的価値が変動する、という意味では同じだろう。

けど本当に…本当に同じか?そこで変わるお金で一円単位で見ると同じ価値か?

正直うまいこと伝えられないけど…、一回僕なら考えたくなる。

 

『こいつに金出したいか?』とか『払ってそれが残るのか』とか『そもそもたくさんの奴が払ってるのに俺だけになにかのメリットがあるのか』とか。

 

あなたはお金を払うその行為の価値や尺度を考えたことがありますか?

 

不明瞭な問題を思うがままに書き連ねました。今日はこんな感じでーーー

 

 

 

 

今日の糞発言:ニンテンドースイッチオンラインには金払うわ。やりたいからな

 

 

*1: Ocean Tokyo.メンズ特価サロン。渋谷原宿のカット相場【約7000円前後】を、一部超人気スタイリストに限り、大幅に12000円へと値上げしたが人気を維持している。

*2: グランブルーファンタジー。特定のキャラクターの出現率が極端に低く出現確率を名義していない為、非常に消費者側に非平等との指摘があった。詳しくはグラブル ガチャ規制あたりでggってどうぞ

1つの成功報酬を切っ掛けに足元を見ず自ら盲信し落ちる人種

生物であれば逃れられない性かもしれない。

ニュースや様々な事件を聞いてて感じる。

僕の言葉も足りないこともあってイマイチピンとこない人も多いはず。

 

例を挙げると、

『いじめられた過去があったけど、自分より弱い奴をいじめてたら自分がいじめられなくなったからいじめまくってた。そしたらそいつ来なくなったんだ。』

 

この例を述べるとタイトルの意味合いも少しだけ可視化されるかもしれない。

いじめだけでなく、何かが足りないものが偶然であれ必然であれ一時でも満ち足りてしまった時の依存心は凄まじいのではないか、と感じる。

そこは人という生き物として生をもらった以上忘れぬ事のできない現象かもしれない。

 

 

 

 

満たない虚栄心を得た代償は大きいのか、小さいのか

これらの事件を見ると、共通してると感じる事は何かしらのコンプレックス、足りないものを抱えそれらを埋め合わせることを強く強く渇望しているように感じる。

そして例え、成功している人間でもその膨大なコンプレックスを打ち消せずすがるように成功経験を他者に言ったり、ひたすらに実行する者も多いと思える。

そうしていると成功しているようでも実際にその成功は虚栄のようにも感じられないだろうか?

そして1番個人的に恐ろしく感じるのは、

コンプレックス、劣等感の度量を人間は推し量れるほど客観性が効かないように感じる。

 

どのくらいやれば自分は満ち足りるのか、

どのくらいやれば自分にとってメリットがあるのか

どのくらいやれば自分は幸せになるのか

どのくらいやれば自分は身を滅ぼすのか

コンプレックスなり何かしらの負の感情を抱いてる者で、そこを客観的に見て行動できてる人間を僕はそんなに見たことがない。

 

身近な例で見ると、

SNSで賛同の声を集めるべく、手段を選ばない』

『コンプレックスの部分を整形したら世界が変わって何度も何度も行う人達』

『彼女に振られた or 仕事がうまくいかないときに別の事情にまず理由を与え納得し、自尊心を維持する人達』

 

これらが全て必ずしも有害であるといえないが、そこをとうの本人が判断できるのかどうかは相当怪しいものだ。

どこかのお偉い政治家も、辞職に追い込まれたとき有識者曰く『本来優秀で頭の回る人だったが感情にかられて、今回はその人らしさがない。』と聞いたこともある。

アクセルのかかり方はそれぞれ違うけどどのくらいでどの速度がかかるのかわからぬままフットペダルを踏んでいるようなそんな感覚も場合によってはあるのかもしれない。 

 

 

 

自分が盲信して罠にかからない為に

恐らくこの問題に関して『自信をつけろ』というのはナンセンスだ。

抽象的な表現で、その人自身も心理も結局とうの本人にしかわからないのに解決した気になってはいけない。

 

はっきりいって僕自身も実行できてるか自信はない。

だが子供の頃から思うのは、

『コンプレックスや勝ちたい気持ち、押し退けてでも這い上がりたい気持ちを自分が持つと結局負けるのでは?』

と念頭に踏まえて行動してしまってたのだ。

これがいいかどうかも怪しいけど、僕が上記で例を挙げたような人達を見ると自分の場合こうしたほうがマシかもしれないと思う時もある

 

今は関係ないから冷静に言えるけど、結局これらの問題点は自身の努力だけでなく他人によっても変わってしまう為、評価が反比例しており、必ずしも成功したりする保証はないんだ。

賛否両論あると思うが、『有能でない負けず嫌い』ならば、いっそのことその環境から遠下げてしまうのも時として悪くない手段かもしれない。

 

特定のゲームが好きで負けたときに最高に悔しくなるけどその悔しさで必ずしも強くなるわけじゃない。

だったらその場所から引いて頭を冷やして練習するなら自分のペースで歩くしかないと考える。

うまくいかないときもある。だがそんなのは当たり前だ。

 

『自分はこれだけの努力をしました、だからこれだけのものをください。』

これが通用するのはせいぜいNPCだらけのゲームくらいだと思うよ。

努力したり、素直で健気でうまく行くなら動物の社会でも同族にいじめられてリタイアする生物もいないしね。

 

コンプレックスや負の感情に取り憑かれて自分を失ったりできればしたくない。

だからなるべく自分の中でその点は意識していきたい。

これは自分自身に言い聞かせる為に書いてる節もある。

僕も苦手な方だからだ。

お互い幸せになりたいですね、

 

みんなはコンプレックスや満ち足りないもので身を滅ぼす危険性、考えたことがありますか?

 

 

 

 

不明瞭な問題を思うがままに書き連ねました。今日はこんな感じでーーー

 

 

 

 

 

 

 

今日の糞発言:東京に来てたけど、喫茶店タブレット使ってたらカッコよくね、って糞な理由でブログ始めたんだごめんね

子育て熱心なパパママブログより、虐待経験者の肉声ブログのほうが見てしまいそう

まずは1つ謝っておこう。

 

最初から過激なタイトルですまない。

 

けど僕の場合たとえば全然知らないブログを見るとして、布団の中で寝かかってて最後の1つを見るとき、育児ブログと虐待経験者のブログどっちを見るだろうか。

感性であるといえばそれでおしまいだが見てしまうのは僕の場合、後者。

SNSの炎上、またどことなくここ近年の国民全体の余裕のなさ、寛容性がやんわりと欠如しているように感じる中良くも悪くも注目を受けるのは、後者ではないだろうか。

  

 

"常識、普通"という平行線を引き、そこから外れる事での見られ方、見られるもの

ここ近年では特に逸脱したもの、事柄に対して非常に良くも悪くも目をつけられ取り扱われる。

ツイッターだと、

また、

breaking-news.jp

あたりか

 

社会的少数派を現す言葉として、マイノリティがあるがここでいうマイノリティは時として何か見たくなるようなそんな魅力を持ってるように感じられることは無いだろうか。

 

僕自身未婚であり、結婚にも興味なく従って育児にも興味もないし自分に資格があるのかすら怪しいところだが当然そのようなジャンルにも等しく興味がない。

だが問題はそこでなく、非常に多くの方が育児のブログを上げている中、マイノリティに属する献身的な育児とは対極をいく虐待などをテーマに取り上げてるブログ等があった場合は果たしてどれだけの人が止まるだろうか。

ブログの一番の目的が人に役に立つような記事、内容を書く事が仮に真理であれば自ずとそのような記事を書くはずであり、そうなると内容がカブってしまうのは想像に難しくない。

 

となると場合によっては食傷気味に捉える人たちもいるかもしれない。

そうなるとき、それらとは異なる情報源や題材を取り上げるブログがあってもいいと個人的には思う。

いわゆる逆張りというやつか。

 

 

マイノリティの強みとはなにか

 

例えば、虐待に対する生の肉声を書く人は少数派だろう。

だが今日虐待問題は、なかなかに社会で取り上げられているわけであり、それにしてはそのような当事者の声があまりおおっぴらに上がることはない。

もしみんなが目を逸らして、当事者だけの問題にしないがしろにしているとすれば、この少数派の記事は人に本来見てもらえる価値の高い記事になるのではないかと考える。

 

それだけで決まるわけではないが、社会的少数派の意見は時として希少性故に高価値であるのに見過ごされる時がある*1と感じる。

 

そして当事者にとっては非常にかわいそうではあるが、自分がマイノリティであると気づかずに上記で形容して平行線を容易く超えて発言を繰り返すことで恐らく注目度は更に際立って上がる。

最も僕としてはそこまでして注目度や知名度を上げて得られるものはあるのか疑問には感じるが…。

正直感覚的なものであり、表現しづらいのでタイトルはある意味非常に直線的で分かりやすいものとした。

 

なにも今回の例だけでなく、多数派のものに対し少数派の意見思想発言を利用し、表現することは場合によっては有益に働くものかもしれない。

 

 

 

 

自分だったらどう利用するか

多くの人はこんなことしない、こんなこと考えないと思うことをあえてするのは僕としては非常に有益な手段であるとは思っている。

例えば、気持ちだけでも『こんな文章は俺しか書こうとしない。書けない。』と思いながら書いてるつもりだ。

 

ただ何かを明確に比較し、対象物を蔑んだり辱める事は自分にとって大変リスキーな行動であるとも自覚しなければいけないと考える。

人それぞれの考えがあり、その意思で行動・表現したものは自分の考えたものと尊いと考えたい。

だから『へえ、こういうのが多いんだ。それじゃあ俺はこっちにするわ』くらいでいいのではないか、と思う。

少なくとも、他者を否定し自分の株を上げてマイノリティ化する自分を肯定するなどしたくない。

 

そのさじ加減を間違えると場合によっては大火傷をおう。

僕も後で知ったが、このサイトの偉大なる大先輩*2が火傷どころじゃすまない事態にもなったようだしね。

 

最後にひとつ言うと、僕自身育児に興味がないだけで、恐らく多数派であると考えられる育児ブログも素晴らしいものだと思うよ。

同じ境遇の人同士が意見を共有でき、尚且つ多くの人が経験するであろうことを先輩に教われるいい文化であると感じる。

だからこそ、じゃあ真逆であったりほとんど見られない意見も貴重であり、価値がますのではないだろうか。

 

 

 

不明瞭なものを思うがまま、書き連ねました。今日はこんな感じで―――

 

今日の糞発言:はじめるわ、ここは俺の自由帳だから。なんか一言どうでもいいこと言いたくなる時もあるから

*1:ただ記事を見てもらえる土台作りを、両者対等に行い始めて正確に比較ができる

*2:俗称:低脳先生によるHagexさん刺殺事件

感性の変化は"自分"によって変わるか。"他人"によってかわるか

あなたの感性はどのように変わっていったのか自分で考えたことがあるだろうか。

 

なぜいきなりこんなわけのわからない事を考えたというと2つあって

自分の事を振り返ったとき、ある年齢を境に急に新しいことに興味が湧いたり、急激に以前は必要だと思ってたものが必要なくなったりすることが増えたから。

もう一つは、少し弟と映画を見に行ったことがあってその時、映画自体にはそこまで弟は興味がないのについてきたのに対し、帰り際に満足そうに感想をいう様を見ると自分と比較すると『随分違うな』と考えさせられたからだ。

 

今回は、価値観の変化に他者が依存するか、しないか。

厳密にはどちら側に限局しているかもしれないが考えたい。

 

 

 

感性の変化は"他者"によるのか。"自身"によるのか。

感性が自分の中で変わった、とは上記で述べた。

でもなぜ変わったか。どういうふうにどういう影響で変わったか、と考える人は徐々に数が減っていくのではないだろうか。

 

僕の場合、昔はひたすらゲームばっかりやって旅行やら映画やら音楽やらその他諸々に興味がなかった。

子供という時期は貴重である。

僕もそうだがその貴重さを無視するかのようにいたずらに自分のやりたいようにやって時間はあるのに、時間がなくなりつつある今の年齢でやりたいことを一切やろうとしない子供時代がそこにあった。

本心で後悔もしてないけど何故してないのか、と思うときもある。

 

だけどここ2年程か…一定の年齢になって旅行に行くことに抵抗がなくなったり、音楽を聴き始めたり、普段見なかったようなニュースを見たり急に自分の中で価値観が変わった。

だけどそこで違和感なのは明確な理由が見つからないことだ。

少なくとも言えたのは、他者は一切関係なく自分の中で何か変わった、ということだ。

強いて言うなら、あまり自分の素性について言わないスタンスで進めたいので細かくは言わないが以前とライフスタイルが変わり、自分としても楽しく何かをしやすい環境になったからだろうか。

勿論それは有限であり、どこまで続くかの保証もないわけだが…

 

ここで対比材料として良い、と思ったのは直近のエピソード。

前もって言うと弟が僕にはいて、精神病を患っていて調子が悪い時が多い。

細かい話は後々のネタに言うとして本題に逸れない様に戻す。

僕自身当事者じゃないので解らない本人の苦悩、心情もあるのだが、自分なりにリフレッシュになれば、と思って弟を映画に誘った。

普段の様子から見てそれほど映画に興味がないのは解った。

人混みが嫌いなのと、普段遠出をほとんどしないタチだったので、田舎の映画館のレイトショーがいいか、と思いそこに誘った。

弟としては、最初微妙だと思ったのだろうが、映画を見終わったあと、車で帰路に着くのだが、その時普段調子が悪く、それに対する愚痴だったり苦労を喋る事が多い人間が映画の感想を結構熱心に語ったのだった。

 

僕としては映画の内容もそうだが、それ以上に僕が振り回したのにもかかわらず、『楽しい』と喜怒哀楽の楽があまりない弟が言うのが意外だな、と感じ挙動を見てた。

多分この様子だと聞いても大丈夫だろう、と思い『俺のやりたいように休日だからやったけどお前楽しかった?』と聞いら『楽しい』と言い、『家にいても悪い考え事をしてしまうことが多いから』 と言っていた。

 

なるほど…、だから自分の価値観と異なることを人と一緒にしても楽しいと言えるのかもしれない。

あまり人から得られるもの、人に勧められたもの、人と一緒に不本意でやり始めたことに対してあまり興を得られることがなかった自分からはそれが新鮮であり、武器であり、強みに見えた。

 

 

2つのあり方を見て自分が感じること

あなたはどっち側なのだろうか。

僕みたいに自己完結するタイプは少数だと予想はしているが、本当にそうなのかも解らない。

 

ただどちらもあるし、片方を阻害してはいけない、片方を優遇してもいけない。

どっちもあるし、どちらにもなれる可能性があると常に思うことが大事ではないだろうか。

僕自身、他者に影響されることが少ないからこそ余計にそう思う。

 

例えば僕自身は、自分の価値観が自分で変わることが多いことがわかるから自分の時間を大切にしたい、と思って他者との時間、他のことに費やす時間をバッサリ切れるメリットがあると思っている。

 

だが同時に例えば、Twitterなどで見られる『尊い』ってネットスラングだとか

他者と『○○っていいよね』といってお互いに共通の趣味を共有できたり、その敷居が比較的低く交友をもてる人を物凄く羨ましく感じる時もある。

ほかの人からしたら、『なんでそこまで考えるのか意味がわからない』と言われてもおかしくないだろう。

だが敢えて言うとしたら、僕はそういうことが全くできない人間だから。

 

だからこそその感性を大事にして欲しい。

僕自身も自分が年齢を重ねてくにつれて価値観が変わるって事実を感じられる事が嬉しい。

お互いフィールドは違うかもしれないが、たまに違うフィールドを想いつつ生きていきたい。

そして僕もたまに他者によって新たな価値観を得られるかもしれない場所に赴きたい。

 

不明瞭なものを思うがままに書き連ねました。今日はこんな感じで―――

 

 

 

"ガチ勢だらけの椅子取りゲーム"という熱情を天窓越しに見つめて

  

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ガチ勢とその他の距離感

 

そもそもブログというものをまともに始めたことがなく、僕としては事前情報が欲しくていろいろ調べていた。

当然なんの知識もないが、ないからこそ出てきた思った率直な意見は、『なんか  PVとか SEOとか 収入とかガチすぎねえ!?』って事だ。

僕としては単純にブログの書き方、長続きの仕方、面白いテーマなどの掲載が初心者向けには大半だと思っていたがどうやら違うようだ。

 

ブログは個性を出せ、自分にしか出せない文章を書け、素直に書けというのは結構見てきたけど、割合収益関係や自分の成功したポイントなどをアピールした記事が初心者の目のあたる場所に多い。

 

事前準備として最低限のことを僕なりに調べてきたが、非常に雑な僕でも目に当たるからおそらくほかの人もこれらの記事は大なり小なり目撃するだろう。

 

僕はゲームが好きで、あまり上手くはないけどやっている。

まぁそのゲームの詳細は今度のブログのネタにするとして本題に逸れる前に戻るけど思った以上にネット上だとガチ勢の指南、激励、説明が多く初心者との熱量の差を感じる時がある。

僕もそうだけど、ある程度なにか物事に慣れた立場だとどうしても初めて遊ぶ人、初めてコンテンツに関わる人に対して熱量の違いが生じてしまう可能性もあると思う。

 

ある種、ブログというものに対して敷居の高さを感じる、というのは否定できない。

実際、どういうふうにやっていくのかわからないからこそ僕の主観で物事を見ており、その他大勢の方々との認識の違いもあるのかもしれないが。

 

 

 

初心者という今しかない目線で見据えて

さて散々、敷居が高いだの難しそうだの弱気で卑屈な事を言っているが、

同時に『人に見られてなんぼ!』『人気を手に入れるには』『どうせならお金も手に入れたいよね!』という欲求も理解できる

そりゃそうだ、やる意味をブログに見出したい、そんな人が大半だ。

僕だって程度の差はどうあれ、できれば見てくれる人がいて欲しいものだ。

 

ただこれは読者や閲覧者の取り合いだし、『みんなが言ってるのも根底は競争であり全員が人気者になりえない高レートの椅子取りゲームに若葉マーク付けてる時から参加してるのでは?』

と記事を見るに思うときもある…が、正直僕のピントがずれてる気もする。

ただ僕の仮説が仮に正しかったとしたら、一定数はPVや人気を諦めてもらって、上の少ない定員で椅子取りゲームをするとお互いウィンウィンなのかもしれない。

 

やはり個性を出せ、といっても同じ人間という人種の中で多数の人が揃えてある程度整合性の整った意見というのは、かなり信ぴょう性が高く真理でもあるとも思う。

例えば散々見てきた『キーワードを意識しろ!』とかね。

1人なら信ぴょう性の薄い言葉でも100人が口を揃えていうのなら大分信ぴょう性が増す

 

ただある種、僕はブログを書き始めて間もない初心者だ。

ブログを長く続けて熟練者になろうとも、初心者を続けることは出来やしない。

その初心者 *1の短い間に生える感性、眼に見える景色、率直な言葉は今しか見えない、言えない、感じられないと思うからだ。

 

天窓とあえて形容したのも、朧ろげに『非常に熱意を感じる』と漠然とした雰囲気は感じられるも、見える範囲が狭くて不明瞭な様を示したつもり。

まぁ僕自身は天窓をこじ開けて同じフィールドに立とうとか想う気持ちはないんだけども。

 

 

 

今後目指したいもの

僕としては、まずブログなどを続けるのに必要なのはダントツでモチベだ。

ここだとはてなスターやコメント等なんだろうけど、若干名の人でも見てもらって反応もらえたらおそらく続くと見越して活動をしたい。

ただ色んな人が述べているブランディングを取り入れて書かないとその若干名の方々にも見てもらえないものなのかもしれない。

そう考えると多くの人が共通して述べる事項には目を向けなければいけない。

けど同時に失敗したら『それはそれ』と考えてはいるので、一番は自分の書きたいことを素直に書く事に全力を注ぎたい。

 

具体的な動機などは今度のネタにするとして、このブログが続くのかどうか保証もないが、上記でも言ったとおり、今でしか見えないモノ、感じられないものもあると考えて

高い天窓から見える朧げながらも熱情のある景色は自分との意識の違いを現している という言葉をこの記事に捧ぐ。

 

続けれいればまた違う景色になるのかもしれない。そのときはどんな風に映るかな

 

不明瞭なものを思うがままに書き連ねました。今日はこんな感じで―――

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:僕がやめなければの話だが、