タトゥーで見える世間の目と自分の目に違い
最近話題になってたタトゥーの問題について
凄い簡単に言うと有名な若手タレントがタトゥーの悪いイメージを物色させたい、という意味合いでタトゥーを入れたことを公表するが逆に世間の目は厳しく結構物議を醸したテーマ
初めに言っておくと僕個人はタトゥー反対派。
しかしただ単にそれだけで終わらす気もないので、色々と考えたことを言葉にしつつ記事になるべく昇華していく。
タトゥーを他人に見せることはいいことなのか、よくないことなのか?
国や所属してるコミュニティーで幾らでも変わりそうだが、今回若手タレントが引き起こした事態に鑑みるに、日本という巨大カテゴリーの中ではイマイチ受けいれられないようだ。
ただこれは国としてのルーツを問われる場合もあるのではないだろうか。
日本では過去に刑罰として刺青を入れる黥刑や、反社会的組織を象徴させるものとして刺青が存在したりはっきり言って国単位でネガティブなイメージを持たれるのが現状ではないだろうか。
またタトゥーの発覚によって人目につかない役職に配置されるなどの声も所々で聞くようだ。
世の中のルールの決まり方って大体"メリットがあるかどうか"、"迷惑をかけるかどうか"で結構決まると思う。
僕自身子供の頃の銭湯で直感的に刺青を入れてる人の隣で椅子に座って体を洗うことはなるべく避けてた。
理由としては本当に身も蓋もなく、包み隠さず言えば怖いし、トラブルになったら嫌だから。
子供の時すらそう思っていて、勿論日本の歴史とか、刺青について今以上に知識もなかったが既にそう思ってた。
後物凄く話は逸れるけど、個人的な主観でタトゥーを入れたとして年を取ってダルダルになって形が崩れたタトゥーって視覚的な意味合いでも非常に悪く見えるような気がする。
肉体の若さを維持するのは物凄く難しいことだと思っている。
その面倒さとそれでも衰えいれたタトゥーが崩れていく現状を僕だったら耐えられないし、
そもそも『なんで痛い思いしながら入れて、面倒な反対派と戦って、タトゥーの綺麗なビジュアルを維持することに努めなきゃいけないんだ』と考えてしまう。
ここで僕自身が無知なため、有識者から見たら『いや、痛くない』『認めてもらえる場所もある』という人もいるだろう。
だが、それを考える手間暇すらめんどく、それなら入れる必要がないと思うのが正直な感想である。
僕だけがそう思うなら、あるいは少数派の意見ならそこまでこの問題は重要視されないだろう。
だが嫌な人が沢山いるなら、やはり世の中のルールはそのように変わってしまうのではないだろうか。
プールや公共施設、銭湯温泉などでのタトゥーを入れている人の使用禁止はまさにこれを結果に現している。
ただ刺青を入れることのできる自由は残っている、という解釈もしているけど。
だから例えばタトゥーに理解のある人々同士で遊ぶこともできれば、彫師がそれを生業にして食べていくこともできる。
文化として一定数残るのはある程度の寛容さはこの時点であると個人的には思ってる。
例えば、国が変われば特定の思想の自由等簡単に変わる。
この行為は完全にタブーであるとかも容易に変わる。
日本の場合は一つは肌を露出しやすい公共施設でタトゥーを見せるな、という前提がある。
だから、見せるべきでないと公に言われてる場所では見せないようにこの国ではしたほうがいいのではないか、と。
タトゥーを受け入れる現実があるとしたら
まず肯定的な意見を持つ人の割合を増やし、ビジネスや観光や商業においてタトゥー肯定者や実際に入れている人の意見を無視できないレベルにまですれば自ずとそうなるのではないだろうか。
そうなると今回の騒動も結果的には必要なことだったとも思える。
これで人々が考えてくれるし、そういう価値観もあるだと思える人が自分の意見を主張し、それを目にかける機会もあるだろうから。
地味かもしれないがこういう行為の積み重ねで社会的な許容性は得られるのではないだろうか。
世の中、自由が謳われているが実際には例えば野球部の全員坊主が前提という風潮やサービス残業等本来強要されてもないのにいつの間にか方向性が変わってたりそれが認められしまってることは沢山あるんだよな。
それをすぐに方向性を変えたりすることは普通できないからこういう行動の積み重ねが必要なのではないだろうか。
個人的にはタトゥーを入れている人が大多数には正直なってほしくはない。
だがなったとして銭湯などでも自由に入れる社会になった時に文句はいえない。
不明瞭なものを思うがまま書き連ねました。今日はこんな感じで―――
今日の糞発言:最近アクセスが少なかったが絶対僕が活動してなかったせい